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雪、雪、雪  7.
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 朝。
 カーテンを開けると外は一面の雪景色となっていた。
「すっごい・・・」
 ひとりきりだと言うのに思わず感嘆の声を上げてしまう。
 天気はすっかり回復し暖かな陽が射している。日の光に照らされても雪はまだ、雪だるまが作れちゃいそうなくらい積もったままだった。こんな積雪は何年ぶりだろうかと考えて、ああ、高校二年生のとき以来だと思い返す。
 溶け始めた雪の表面はきらきらと輝いて、起きぬけの目に眩かった。
 ざっくりとしたグレイのセーターとポケットのたくさん付いたジーンズを穿いて階下に降りた。どちらも「みたむら」のものだ。
 コーヒーを煎れる。時間はもう十一時になろうとしていた。
 今日は土曜日で大学はお休みだ。
 試験の勉強をしようか、読みかけの本を読もうか、それとも掃除をするべきか。ひとりで庭に出て雪だるまを作るという手もあるが、それはちょっと虚しい。近所の目もある。これでもハタチの女のコ、なのだ。
 新聞に目を通しながらずずっとコーヒーをすする。
 玄関先で何やら物音がした。インターホンが鳴る。
 父だ。
 昨日留守番電話に、今日帰る旨、メッセージが入っていた。
 鍵くらい自分で開けろよ、と胸の内で毒づき玄関に向う。
 父はひとりではなかった。三十代くらいの男性秘書のひとが一緒にいた。これからまた直ぐに出かけると言う。
 余っていたコーヒーをふたりに容れて、あたしはさっさと二階に上がった。父の顔なんか見たくもない。
 ベッドの上に横になって不貞腐れていると、
「一子、開けるよ」
引き戸の向こうから父の声。
 渋々身体を起こした。
 ちらっとだけ視線を合わせたが、直ぐに逸らし、意味もなく足元を見た。裸足の爪先。
 玄関で顔を合わせたときも思ったのだが、少しだけ頬がこけたように見えた。でも何も言ってやらない。
「一子。今朝、事務所に門倉と樹くんが来たんだ」
 え。と、思わず声を出して顔を上げた。
 父と目を合わす。やっぱり少し痩せたみたいだ。
 門倉のおじさんはわかるけど、なんでイッキがお父さんの事務所へ?
「樹くんと一子は、その・・・」
言いにくそうに口篭った。「つき合ってるんだって?」
 はあ?と言いたい気持ちを抑えて、父の顔を怪訝な面持ちで見詰めた。
 父は机の前の椅子を引いて腰を下ろすと、大袈裟にはあ、っと息を吐いた。
「そんなことこれっぽちも知らなかったから、本当にびっくりしてね」
「・・・」
「まあ、お前たちがそうしたいんなら、お父さんは勿論反対はしない。元々そうなればいいと思ってたわけだし」
何の話をしているのか、全くわからなかった。「門倉も、昨日の夜、樹くんに聞かされたばかりだと笑ってた」
 昨日の夜。
 イッキは田辺さんたちと出掛けなかったのだろうか。実家に帰っていたとは、隣にいながら全く気が付かなかった。
「・・・イッキはお父さんのところに何を話しに行ったの?」
 父の顔付きから、ただつき合っていることを報告に行っただけだとは思えなかった。
 訝しげにあたしが問うと、父は一瞬きょとんとして、でも直ぐに真面目な顔になった。
「婚約の話を白紙に戻さないでほしいって、樹くんはそれを言いに来たんだよ」
 え。
「大学を卒業したら、当初の予定通り結婚させて下さいって。卒業までに司法試験に必ず受かりますからって」
「・・・」
─── 一子のことを一生大事にします。
「そう言って頭を下げるんだ。いつも気取って澄ましてる、あの樹くんが、だよ。・・・参ったよ」
 父の声を、どこかしら遠いところで聞いているように頭は惚けていた。
「なんだ、一子は知らなかったのか」
 呆れたように父が言う。
 知らない。何にも聞いてない。
 父から視線を逸らして、呆然と机の引き出しの辺りに視線を置いていた。
「一子も同じ気持ちなのか?」
 あたしはゆっくりと首を縦に振った。父はまたひとつ息をついて、そうか、そうだよな、と頷いた。
「お母さんには」
父が鷹揚に立ち上がった。「一子から電話でちゃんと報告しておきなさい」
「・・・」
「お父さんからも伝えてはおくが・・・」
 頭上から声がして見上げた。そんなに大柄なほうではない。もう行かなくてはいけない時間なのだろう、踵を返す。
「今から、お母さんのとこに行って話しをしてくる」
「え」
あたしは思わず立ち上がった。「今から?今から行くの?ロスのおばさんのとこに?」
「ああ。仕事もひと段落したから連れ戻しに行かないとな。まあ、今回直ぐに一緒に帰ってもらえるかどうかはわからんが・・・」
父らしくない自信なさ気な言い方だった。「今まで、色々わがままを言い過ぎたな」
寂しそうに呟いてから部屋を出て行った。やや猫背気味の背中。確実にひとまわり小さくなった身体を目の当たりにして、あたしの胸は少しだけ切なくなっていた。


 母から電話がかかってきたのはその日の夕方近くなってからのことだった。時計をちらりと見た。多分、向こうは夜の十一時か十二時くらいの筈だ。
 午後からまた雲が出てきて、陽の射さない庭の雪は未だ溶けることなく地面を覆っていた。
『一子?元気にしてる?』
「う、ん・・・」
 久しぶりに耳にする母の声に、あたしは胸がいっぱいになってしまった。
『一子から電話してくれるの待ってたのよ。なのに、いつまで経ってもかけてこないから』
「だって・・・」
 もし拒絶されたらどうしようかと、怖くて電話することができなかったのだ。父だけじゃなく、あたしまで見捨てられたような気がしていたのだと、母の声を聞いて初めて気が付いた。
 受話器の向こうで母が小さく笑うのがわかった。
 国際電話だからだろうか。声が遠い。
『一子、聞いたわよ』
 ひやかすような声の響き。
「え?何を?」
『何っ、て樹くんとのことよ。お父さんから聞いたわよ。よかったわね。やっぱり樹くんも一子のこと好きだったのね』
 え。
「え?あれ?」
『なあに?』
「え。お母さんとお父さんって、もしかして連絡取り合ってるの?」
『・・・』
一拍置いて、母はけらけらと笑った。『当たり前じゃない、そんなこと』
 当たり前。
 そうか。そうなんだ。
 ふたりは夫婦なのだ。
 あたしは、がっくりと肩を落とす。
 何よー、心配して損したじゃないのよー、と心の内で叫んでいた。
『お父さん、どう?元気にしてる?相変わらず忙しいみたいだけど、今、家にいるの?』
 あー、そうか。お母さんを迎えにロスに向っていることはまだ知らされていないんだ。言わないほうがいいんだろうな。
「家にはいないよ」
『そう・・・』
「今日ね、久しぶりに会ったんだけど、なんか、ちょっと小さく見えた」
『・・・』
 少し雑音の混じった沈黙。口に出したあたしのほうも、しんみりしてしまった。
─── お母さん、帰って来て。
 痛切に叫びたいような思いはあったけれど、口には出さない。
 今回の出来事が母にとってどれほどの衝撃であったか。
 軽々しく自分の思いだけをぶつけることはできなかった。
『また電話するわね』
「うん・・・」
あたしからも、する。
 そう言って受話器を置いた。
 再び静寂が訪れる。
 台所の椅子に腰掛けて、頬杖を突いた。
 使い込んだ食器棚をぼんやりと見詰めた。「みたむら」が成功してから生活は随分よくなった筈なのに、母は新しい物を買おうとしなかった。家だって、建てかえることもできただろうに。
「お父さんのことだから、いつまた、やめたー、って言い出すかわかんないでしょ?だから貯金はしとかなきゃ」
「言えてる」
 母とはそんな他愛のないことを言っては笑い合っていた。揺るぎない幸せがあのとき確かにこの家にはあったのに。
 食器棚が滲んだ。
 涙はぽろぽろと頬を伝う。
 どうして泣いているのか、自分でもよくわからなかった。安堵と不安が同じ質量で、胸の中でぐにゃぐにゃと交錯している。
 川嶋一平さんはいいひとだと思うけれど。もしこのまま母が帰ってこなければ、きっとあたしは彼を恨むことになるだろう。
 インターホンが鳴った。
 手の甲で涙を拭って立ち上がる。からからと、引き戸の開く音がしてはっとした。先ほど父が出た後に、ちゃんと鍵を閉めておかなかったことを思い出して不安になった。性質の悪いセールスだったらどうしよう。
 そうっと顔を覗かせると、そこには昨日と同じ黒のダウンジャケットにジーンズ姿のイッキが立っていた。
 むっとした顔。
「鍵、開いてるじゃねえか。無用心だな」
 あ、うん、と言いながらイッキの顔をぼうっと見詰めた。
 言いたいことや聞きたいことは山ほどあったのに。顔を合わせた途端全て掻き消えてしまっていた。
 イッキは靴を脱ぎながらぞんざいな調子で言う。
「一子、今日もひとりだって、おじさんに聞いたから」
「・・・」
「寂しがってんじゃないかと思って、来た」
 手にはコンビニの袋。ビールの缶の模様だけが透けて見えた。
 擦れ違いざま、頭をくしゃくしゃっと撫でられた。いつもの無愛想なイッキだ。一体どの口で、あたしを一生大事にするなどと言ったのか。
「おじさんから聞いた?」
 振り返らずに前を歩くイッキが言う。
「・・・うん。聞いた」
「びっくりしたろ」
「うん。びっくり。・・・いきなり結婚なんて、言うかな?」
「こっちからも爆弾落としてやりたかったんだよ」
いつもびっくりさせられてばっかだもんなあ、とイッキが笑った。「おじさんにも、一子にも、さ」
「断られるって思わなかった?」
「・・・思わないね、全然」
「あ、そ」
 憎たらしい。
 好きだとか、愛してるだとか、そういう甘い言葉はない。まあ、こちらもイッキ相手にそんなことは端から期待していないんだけど。
 コンビニの袋から取り出した缶ビールとお弁当を、イッキがテーブルに並べる。
 あたしが座る席をイッキは覚えていた。そして、自分のお弁当はかつて遊びに来ていた頃、いつも自分が座っていた場所に置く。あたしは突っ立ったまま、その様子をぼんやり眺めていた。
「もしかして泣いてた?」
顔を上げたイッキが問う。「鼻の頭、赤くなってる」
 あたしは言い当てられたことが悔しくて唇を尖らせた。
「・・・ちょっとだけだよ」
「おばさんから電話でもあった?」
「・・・なんでわかるの?」
「なんでかな」
イッキは首を傾げる。「でも、わかるよ」
 ふーん、そうなんだ、と軽くいなそうとしたけれど。
 言っている途中で涙が溢れてきた。唇の両端が捲れ上がる。
 ぶっ、とイッキが吹き出した。
「なんだよー、一子、その泣き方は。面白すぎ」
「・・・うるさい」
ひとが泣いているというのに、どこまでも失礼なヤツだ。
「ガキの頃のまんまじゃん。色気ねえなあ、お前」
テーブルを回って寄ってきたイッキがあたしの鼻を摘まむ。「泣くなよ、一子」
腰を屈めて面白そうに顔を覗き込んできた。
「泣くなって」
「泣いてない」
「泣いてんじゃん」
「泣いてないってば」
 涙はぼろぼろとみっともないくらい両目から零れ落ちる。色気がないと言われたけれど、止められない。
 寂しかった。
 母が家を出てからずっと寂しかったのだ。
 この静けさの中で、どう孤独と向き合えばいいのか、もうわからなくなっていた。
 イッキが笑いながらあたしの頭を抱き寄せる。うなじに当てられた掌は思いのほか温かくて、あたしはしゃくりあげて泣いてしまった。
 顔を埋めたイッキのジャケットからは、煙草と雪の入り混じる湿った匂いがした。
 
 
 日曜日は朝からイッキとふたり、うちの庭で雪だるまを作った。
「勘弁してくれよー。眠ぃんだよ、俺は」
「嘘、嘘。寒いからって嘘吐かないで。早くしないと、雪が溶けちゃうよ」
 嫌がるイッキを門倉家から無理矢理連れ出したのだ。
 垣根の向こうからイッキのおばさんと、それから弟くんが顔を見せた。四つ年下の弟くんに、うわっ、ガキくせー、と言われたけど気にしない。
 小さくて少し泥の混じった、不細工な雪だるまを眺めながら台所でココアを飲んだ。
 感覚のなくなっていた指の先が、ゆっくりと痺れるように暖かさを取り戻していく。ずうっと凍っていたものが溶けていくような感触。
「ねえ、イッキ」
「あ?」
「イッキはどうして、三年前、あたしと婚約してもいい、って言ったの?」
 ずっと疑問に思っていたことだった。当時イッキには絶え間なくカノジョがいたし、正気の沙汰とは思えない父の話を真に受け、しかも承諾した理由が、どんなに考えてもあたしにはわからなかったのだ。
 イッキは表情のない顔でガラス越しに雪だるまを見詰めている。
「言っとくけど、親のことは全く関係ねえからな」
「・・・」
「ったく、何考えてんだよ、一子は」
「・・・ごめんなさい」
 あたしはしゅんとなった。イッキがカップに唇をつける。甘すぎるのか、ちょっと顔を顰めた。
「うちに来たおじさんにさ」
「・・・」
「最初、話を聞かされたとき、俺、断ったんだよね」
 断った。
「え?そうなの?」
 聞いてない。
 思わず素っ頓狂な声を上げていた。イッキがこちらの顔を見ないままに頷く。
 へえ。断ったんだ、と胸の内で反復する。
 ちょっと。
 いや、かなり。
 傷付いていた。
「ふくれるな」
テーブルの下でイッキの足があたしの脛を突付く。でもなんだか悔しい。
「だって、俺、あの時まだ十七だったんだぜ?つき合ってくれる女のコも周りにいっぱいいたしさ。・・・養子どころか、結婚なんて冗談じゃねえって思ったよ」
「ふーん」
さいですか。
「俺が断ったら、じゃあ、うちの兄貴ふたりはどうだろうって、おじさん、平気な顔で隣にいる親父に言うんだ。俺、むっとしたよ。だから兄貴たちも断ると思いますよ、って意地悪く言ってやったんだ」
 散々な言われように、益々頬が膨らむ。
「おじさんはそれでも笑ってんの。別に、いいよ、断られても、って。本当のことを言うと、うちの会社にも何人か候補がいるからって。後から考えたら、俺、騙されてたのかもしんねえけど。そのときおじさんが真剣に後継者を探してるみたいに俺には見えたんだ。その会社の候補のひとと一子を、一子が高校卒業したらすぐにでも結婚させたいって、そんなことまで言うんだぜ。え?まじなの?って、俺、言葉が出てこなくなってさ」
 あたしは初めて聞かされる真実に眩暈さえ覚えていた。顔が熱を持つ。
 何を考えてるんだ、あの父親は。めちゃくちゃの絶対量を超えている。お母さん、出て行って正解だよ。
 ふつふつと湧き上がってくる怒りをひとり堪えていると、イッキが何かを思い出したようにふっ、と笑いを零した。カップの中を見詰めている。
「あの頃、一子って、ころころ太っててさ、俺から見たらすげえ幼稚でガキ臭かったわけ」
「・・・ひどい」
「いや、まじで。それに、一子、女子校行ってたし、俺の傍ばっかうろちょろしてて、俺以外の男と話したこともなかっただろ?俺、頭ん中で色々想像しちゃってさ」
「何を・・・」
「一子が俺以外の、しかも大人の男のひとと仲良くしてるとこ、想像したんだよね。色々とさ」
 色々・・・。
「ムカついたわけ。絶対嫌だっ、て思ったの」
「・・・」
「で。つい・・・」
 つい・・・?
「つい、いいですよ、って」
 言ったんだよね。
 首を傾げている。
「つい?」
「うん、つい」
「ついって何よ、ついって」
「だって本当にそうなんだから仕方ねえじゃん」
「えー。なんなのよ、それー」
あたしはがっくりと椅子の背凭れに身体を預けた。「聞かなきゃよかったじゃんよー」
 イッキは唇の端を上げて笑っている。
 真実なんてこんなものなのか。
 運悪く「みたむら」で働く見知らぬ人間と結婚させられていたかもしれないのだ。それを思えば今の自分は幸福だと受け取るべきか。
 唇を尖らせてもう一度外に目を遣る。軒からぽたぽたと雫が垂れていた。溶けていく雪。空は快晴だ。
「ねえ、イッキ」
「あ?」
「それってさ」
「・・・」
「あたしを好きだったって、こと?」
 返事はない。
 視線をゆっくり戻すと、むすっとした顔のイッキ。怒っているみたいで、でも頬が少しだけ赤くなっている。
 あ。
 あの時と一緒だ、と思った。
 イッキが婚約を承諾したと父に告げられた翌日、門の前で鉢合わせしたときのイッキの顔。あのときもこんな風だった。
 そうか。
「なあんだ・・・」
 そうだったのか。
「何ニヤついてんだよ」
「べつに・・・」
「笑ってんな」
 脚を蹴られた。
「笑ってません」
 こちらも負けないでやり返す。テーブルの下でどうでもいいような小競り合いが数秒続く。あたしたちはふたりでいると情けないくらい幼稚になっていけない。
 言いたいことや聞きたいことはまだまだ沢山あったけれど。
 今はいいや、と思った。
 温くなった甘いココアを飲みながら、もう少し穏やかな時間の流れを感じていたい。
 せっかく作った雪だるまが少しずつ崩れていく。石を目に、枝を唇に見立てた顔がくしゃりと潰れて、何だか笑っているようにも見えた。
 太陽の光に照らされ溶けていく雪の表面はきらきらと眩しい。百日紅の枝の根元に溜まっていた白い塊が落ち、ばさりと案外重量のある音を響かせた。
 視界の端に映る、欠伸を懸命に噛み殺すイッキの眠そうな顔。なんだ、ほんとに眠かったんだ。ココアを飲むふりをして、イッキに見えないようにこっそり笑ってやった。


(完)
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© Chocolate Cube- 2005-2006