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雪、雪、雪  5.
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 我が家は古い日本家屋だ。
 イッキの住んでいる築三十年のアパートよりもずっと古い。昔のホームドラマに出てくるような和室だらけの家。
 玄関の引き戸を開けるとからからと乾いた音がした。
「ただいま」
 誰もいないと知りつつ一応声に出して言ってみる。習慣は変えられない。中は陰鬱と暗く、空気もじめじめと冷たかった。待つひとのいない家というものは、こんなにも侘しい雰囲気を漂わせるものなのだろうかと改めて感じ入る。
 上がり框に腰掛けてブーツのジッパーを下ろした。
 イッキはあたしを降ろした後、
「先に入ってろ。煙草吸ってから行く」
そんなことを言った。直ぐに引き返すとばかり思っていたのに。
 イッキがうちに来るのなんていつぶりくらいだろうか。
 イッキのスリッパだけを用意して、自分はスリッパを履かないで廊下を歩いた。直ぐに足の裏がひんやりとしてくる。
 廊下の端にはうっすらとほこりが溜まっていた。明日箒で掃こう。そう思いながら母が出て行ってから一度も掃除をしていない。
 イッキにお茶くらい出したほうがいいのかな。
 入った台所もやはり薄暗かった。まだ昼間なのに翳っている。古い家だから仕方がない。ぱちんと灯りのスイッチを入れた。
 誰もいない家は耳が痛くなるくらいしんとしていた。
「おじゃまします」
 イッキが遠慮がちに台所の扉を開いた。
 手を洗っていたあたしが顔だけで振り返ると、イッキは少し照れたような表情になった。
「久しぶり、だな」
「そうだね」
「おばさん、ほんとにいないんだな」
 イッキが視線を巡らせる。言葉に戸惑いが滲んでいた。
 お茶、飲む?と訊くと、直ぐ帰るからいらない、いいから、寝てろ、と言われた。
「熱、測った?」
「ううん」
「お前ね。もう、何にもしなくていいから早く寝ろよ」
「うん・・・」
 体温計とお茶の入ったペットボトルを持って二階に上がる。大人ふたり分の体重をかけられて、年季の入った階段はみしみしと音を立てて軋んだ。
 あたしは部屋の前に立って躊躇った。後ろにイッキがいる。振り返らないで言った。
「イッキ」
「あ?」
「パジャマに着換えたいから、いいって言うまで入って来ないで」
 返事がない。ゆっくり振り返るとイッキはそっぽを向いていた。部屋の前は幅の広い廊下で、部屋の反対側には窓がある。手入れの行き届いた庭と、それからイッキの家も見える。イッキの家も結構な時代物だ。古いけど、広くて洒落た洋館みたいな家。
「・・・今更だろ」
 ぼそりと呟くイッキの掠れた声。
 今更。その言葉は昨日のふたりの姿を思い出させて、あたしは狼狽えた。裸で抱き合った姿。かあっと顔に血が上る。あたしはヘンタイかっつーの。
「イッキは慣れてるかもしんないけど、あたしは恥ずかしいの」
 イッキがあからさまにむっとした表情になった。怒ったみたいに横目で睨む。
「慣れてるって、何だよ」
「イッキ、やらしい顔になってる」
「はあ?」
「いいから、もう、あっち行ってて」
 イッキは肩を竦めて、はいはいわかりましたよ、といい加減な返事をすると、
「やっぱ、コーヒーもらうわ」
踵を返してどたどたと階段を降りて行った。スリッパは履いていなかった。
 

 七度三分。
「微熱、だな」
「うん」
「薬、飲むか?」
「ううん。いらない」
 布団の中は暖かい。ずっと重かった腰が安らぐ感じがする。やっと落ち着いたあたしはほっと息をついた。
 イッキはベッドの横に据えてある机の前に座っていた。
 昔から使ってる木製の机。
 イッキの身体にはサイズが合っていない。イッキが座ると、机自体がひと回り小さくなったみたいに見える。
 そういえばこの古めかしい家全体がイッキのサイズに合っていないような気がする。台所に入ってくるときも、この部屋の敷居を跨いだときも、イッキは少し頭を屈めた。そうしないと鴨居に頭をぶつけてしまうから。
 イッキの大きな手が机の上の小物を触ったり、意味もなくライトを点けたりしている様子を懐かしい思いで見ていた。
「静か、だよな」
「う、ん」
 確かに。
 静寂だった。
 時折、風が窓を揺らす音がするけれど、それ以外、外の音は聞こえてこない。
 エアコンから出てくる暖かい空気の流れる音と、イッキが身体を動かすたびに軋む椅子の音。コーヒーの香ばしい匂い。
 あたしは車の中であれほど睡眠を取ったというのに、家に辿り着いた安心感からか再び眠くなってきていた。
「一子さ」
「うん・・・」
「もしかして、この家にひとりでいるのが寂しくて、俺のとこに来たんじゃねえの?」
「・・・」
 あたしは天井を見詰めていた。濃い茶色の木目。どんなに洋風な部屋にしようとしても、あの天井の所為でちっとも垢抜けないと、高校生の頃はそんなことで悩んでいた。
 寂しい。
 違う。
 そんなんじゃない。
 イッキのとこに行ったのはそんな理由からじゃない。
 でも、イッキの言葉から零れ出た何かがすとんとあたしの胸に落ちたのは本当だ。それはじわじわと身体中に広がっていった。
「違うよ」
 じゃあ、何で来たんだよ、と問われたらどうしよかと思ったけれど、イッキはそれ以降口を噤んで何も言わなくなってしまった。
 その後おそらく三十分くらいうとうとしていたと思う。
 気がついたらイッキがベッドに腰掛けていた。
 あたしが目を開けると、イッキがそうっとおでこに掌を伸ばしてきた。柔らかく前髪をかき上げられる。イッキの黒い瞳は真摯な色をしていた。
 心臓がとくん、と鳴った。
 昨日。同じように前髪をかき上げられ何度も額にキスされた。またされるのかな、と思った。あたしは思わず息を詰めた。イッキの手の動きが止まる。
「アホ面」
「え」
 びしっといい音がして、いきなり額に激痛が走った。銀色の星がちらちらと舞う。
「いった・・・」
でこピンされたのだとようやく気が付いた。「痛い、痛い、いったーっい」
あたしはおでこに両手を当てて跳ね起きた。あまりの痛さに涙が滲む。
「何すんのよ、信じらんないよ、ばかイッキ」
 手加減してよばか、と言いながら身体を折り曲げる。まじで痛かった。
「アホ面してっからだよ」
イッキは鼻に皺を寄せて愉快そうに笑っている。まるでいたずらっこだ。
「あたしは熱があるんだよ。ひどくなったらどうすんのよっ」
「あれ。そうだっけ」
どこまでもとぼけた男だ。イッキは、睨みつけるあたしの頭を宥めるみたいに撫でてから立ち上がった。
「俺、もう、帰るわ。車、返さないといけねえし」
 あ。
 そうだ。イッキは帰らなくてはいけなかったのだ。両手をおでこに当てたまま、イッキが上着を羽織る姿をぼうっと見ていた。
 イッキが出て行ったあと、内側から鍵を掛けなくてはいけないのであたしもベッドから足を降ろした。
「一子」
 イッキがこちらに背中を向けたままで言う。
「うん?」
「もし寂しいんだったら、おじさんかおばさんが帰って来るまで、俺、泊まりに来てやろうか?」
 声の調子はもう笑っていなかった。
「え。いいよ」
息を呑んでいた。「・・・もう、来なくていい」
 戸に手を掛けたイッキの動きが一瞬止まった。
「・・・何で?」
 低く掠れた声。
「何でって」
 イッキが振り返った。廊下から冷たい空気が入ってきて頬を撫でる。
「一子、もしかして、あれっきりにするつもりだった?」
 あれっきり。
 あたしはイッキの顔をまともに見ることができなくて、視線を斜め下に落とした。ベージュのカーペットからはみ出した畳の端っこが見える。
「やっぱ、そうか」
 イッキは大きく溜め息を落とすと、そんな気はしてたけど、とひとり言みたいに呟いた。イッキがこちらを見ているのが痛いほどわかった。あたしは俯いたまま自分の足元を見ていた。寒さで真っ白になった爪先。
「一子は勝手だよな」
 勝手。
 そうかもしれない。
「そうすることに何の意味があんの?」
「・・・」
「俺らってさ、卒業したら結婚しなきゃいけないんじゃねえの?だから、お前、思い切って俺のとこに来たんじゃねえの?」
 あたしは目を丸くして顔を上げた。イッキを見詰める。
 結婚。
 しなきゃいけない。
「違うの、かよ?」
 あたしは首を少し傾げた。どういうわけか、気持ちに反して口許が緩んだ。笑っていた。
「やっぱり、イッキ、そんな風に思ってたんだ・・・」
「は?」
「結婚しなきゃいけないってこと、ないと思うよ」
「・・・」
「いけないってこと、ないと、思う」
「一子?」
「イッキが嫌だって言えば、おじさんだって、うちのお父さんだって、無理矢理なんてさせないと思う」
「・・・」
 イッキは戸惑ったようにあたしの顔を見ている。
「イッキはどうして断らなかったの?お父さんが話を持っていったとき、どうして嫌だってちゃんと言わなかったの?イッキが断ったからって、お父さん、イッキのお父さんとの仕事反故にしたりとか、そんなことしなかったと思うよ。イッキが断ってたら、あたしたちだって・・・」
「一子・・・」
イッキが近寄ってきてあたしの肘を掴んだ。「お前、やっぱ、なんかあったんだろ」
 あたしは首を横に振った。
「嘘つけ」
「・・・」
「なんかあったから、俺のとこに来たんだろ?何があったんだよ?話せよ」
「何にも、ない」
「嘘だ」
 あたしはイッキを見据えた。
「理由がないといけないの?」
 イッキの言葉に思いのほか深く傷付いていた。お腹の奥のほうからどろどろと黒いものが込み上げてくる。唇も顎も指先も震えていた。あたしは今ひどい顔をしている筈だ。
「いいじゃない、どうせ、結婚しなきゃいけないんだから」
「一子」
「だからイッキもあたしを追い返さなかったんでしょ?嫌だったら追い返せばよかったのにそうしなかったのは、結婚しなきゃいけないからなんでしょ?・・・いいじゃん、お互い楽しめたんだから。あたしだって、ああいうこと一回くらい経験してみたかったし、それだけだよ。理由なんてない」
 イッキが細めた目であたしを見る。冷ややかな目つきだった。
「一子、お前、それ本気で言ってんの?」
 呆れたような声色。
 だめだ、と思った。やっぱり、あたしたちはだめなんだ。あたしは何をやっても何を言っても、イッキを呆れさせる。
 不意に電話のベル音が鳴った。軽い鈴の音のような音が、静まり返った家に響いた。
 イッキが眉間に皺を寄せてジーンズの後ろポケットに手を当てる。携帯電話を取り出したイッキは、少し躊躇ってから電話に出た。
「もしもし」
 電話の相手の声が漏れ聞こえてくる。何を喋っているのかはわからないけれどよく通る澄んだ声。田辺さんだ。
 途端に惨めな気持ちが胸に広がっていった。何でだかは自分でもよくわからない。あたしはイッキの横で唇を噛んで俯いていた。
「ああ。わかった。今から出るって中野に言っといて」
 どうして中野くんじゃなくて田辺さんが電話してくるのだろうか。嫌だ、と思った。あたしとイッキがふたりでいることをわかっていて電話をかけてくる田辺さんが嫌。いろんな女のコの電話番号を、おそらくは登録しているだろうイッキが嫌。そして誰よりも、こんな風に思ってしまう自分が嫌。
「帰る」
 電話を切ったイッキはそう言うと廊下に出た。もうあたしの顔を見ようともしない。
 沈んだ気持ちのままイッキの後をついて階段を降りた。裸の足に、床が冷たかった。
 行かないでほしい。田辺さんのとこになんか戻らないでほしい。このままここにいて欲しい。痛烈に込み上げてきた思いをぐっと呑み込む。
 玄関の戸を引いたイッキが、振り返らずに言った。
「俺は、嬉しかったよ」
 声からはいつもの皮肉な調子が抜けていた。柔らかく掠れた声。
「一子にずっと避けられてて、俺、正直、辛かったんだよね」
 あたしは目を見開いた。避けていたのはイッキのほうだ。でも、唇から責める言葉は出てこなかった。身体中が石みたいに固まっていて、身動きひとつとれなかった。
「だから、一子が昨日駐輪場でさ、俺を待っててくれてたってわかったとき、ほんとはすっげえ嬉しかったんだ」
 昨日、駐輪場で見せたイッキの顔を思い出していた。不機嫌な顔。ちっとも嬉しそうには見えなかった。
 あたしは何も言えなくて、イッキの横顔をじっと見詰めていた。
「追い返さないよ」
イッキの右側の口角が少しだけ上がった。笑っているみたいだった。
「俺が一子を追い返せるわけ、ないだろ?」
「・・・」
「・・・じゃ、な」
 イッキは背中を向けるとさっさと行ってしまった。最後に見せたイッキの表情は、やっぱり怒っているようにしか見えなかった。
 

 川嶋一平さんと父は「みたむら」の最終面接で初めて顔を合わせたらしい。
 川嶋という苗字。
 生まれた年。
 出身地。
 亡くなった母親以外身寄りがいないということ。
 自分にも、そしてかつて愛したひとにもよく似た顔立ち。
 あたしでさえ感じた近親の共鳴を、父が覚えなかったわけがない。
 父には母と知り会う前にコイビトがいたそうだ。四つ年上のコイビト。ある日突然そのコイビトが自分の前から姿を消してその恋は終わったのだという。
 父は、川嶋一平さんの出自を調べ始めた。イッキのおじさんの事務所に頼んで。
 報告書が届くたび、確信は深まった。
 川嶋一平さんは父の子供だった。
 真実が明らかになる段階で、イッキとあたしの結婚話を白紙に戻そうと言い出したのは、門倉のおじさんのほうからだったらしい。
 おじさんは知っていたのだ。
 父が息子という存在をずっと欲しがっていたことを。
 その事実は、あたしと母を打ちのめした。
 川嶋一平さんと養子縁組したいと父に告白された日のことをあたしも母も忘れることなんかできないと思う。
 イッキはあたしの婚約者ではなくなった。
 そう聞かされたあたしは自分の歩く道筋を見失ったみたいに、目の前が真っ暗になった。


 三和土に佇んだあたしはパジャマ姿のまま、長いこと動けなかった。
 澱のように溜まった沈黙が廊下を這って押し寄せてくるような気配を背中に感じていた。怖くて振り向くことができなかった。
 あたしは本当に大事に育てられたと思う。父と母に愛されていたと思う。
 あたしたち三人は本当に仲の良い家族だった。
 それでも父の中にはあたしや母だけでは補えない小さな穴が存在していたのだろう。
 父の告白を聞いた母は、いつも通り全てを受け入れたように見えた。少なくとも、あたしにはそう見えたのに。
 母は家を出てしまった。
 あたしは母を傷つけた父を詰り、拒絶した。
 母のいなくなった家から温もりは消え、今、この家はただの空っぽの箱となり果てた。
 今回の爆弾の衝撃は強かった。
 あたしたち家族はバラバラになってしまった。


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